映画『聲の形』 感想。「ごめんなさい」と「ありがとう」

 9月17日にロードショーされました映画『聲の形』、京都アニメーション、さらには山田尚子さんが監督ということもあり、原作漫画は未読ではありますが、公開日に観に行きました。そして、早速2回目を観に行ってしまいまして、少し感想をと思いブログを更新します。(若干のネタバレがありますのでご注意ください。)

 

  

 「ごめんなさい」

 『聲の形』を鑑賞して、この言葉に強い印象を抱かされます。前半、小学校パートの主人公 石田将也がヒロイン 西宮硝子に対して行ったいじめ。物語の発端となるその出来事により、クラスの上位カーストにいた将也は失墜、自身に対して罰を受けるべき人間であると考え、自己否定の思いを積み重ねてしまいます。硝子も同じく、このいじめが発端ではないと思いますが、自己否定を積み重ねていきます。結果として、二人は対峙する相手に対して何もかも自身に責があるような考えを持ってしまい「ごめんなさい」という言葉が出てしまうと思えて仕方ないです。そして、この「ごめんなさい」は相手の顔を見ずとも言える台詞であると思えます。

 

 

 「ありがとう」

 終盤の将也が退院した後に、使われ始める言葉な印象です。自己否定の中に生まれる「ごめんなさい」という台詞から、この感謝な気持ちの「ありがとう」へと移ります。そして、これが本作品なのかな、と思えます。

 病院で謝罪される将也の母、石田美也子の姿を見ていると「ごめんなさい」ばかり言われるのは辛くなり、そんな気がなくとも、まるで自身が相手を責めているように感じてしまいます。小学校パートで硝子に対していじめていたのは将也で、そんな将也に「ごめんなさい」を言うのは硝子で、それは将也が言わないといけない言葉で、そんな「ごめんなさい」と言う言葉を掛け違えた、感情の表現を上手くできない登場人物たちが、手に入れたのが「ありがとう」なのかもしれないです。

 

 このような「ありがとう」に満ち溢れた作品をありがとうございました。

 

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